迷ったときほど遠くを見よ
迷ったときほど遠くを見よ
日記やメモ。
一、自処超然(ちょうぜん)
自分自身に関しては、一向に物に囚われないようにする。
二、処人藹然(あいぜん)
人に接して、相手を楽しませ心地よくさせる。
三、有事斬然(ざんぜん)
事あるときは、ぐずぐずしないで活発にやる。
四、無事澄然(ちょうぜん)
事なきときは、水のように澄んだ気でおる。
五、得意澹然(たんぜん)
得意なときは、たんたんとあっさりしておる。
六、失意泰然(たいぜん)
失意のときは、泰然自若としておる。
雀銑
その色、偶然か必然か。
その艶、偶然か必然か。
その形、偶然か必然か。
その姿、偶然か必然か。
その趣、偶然か必然か。
その美、偶然か必然か。
そのもの、偶然でも必然でもなければ。
そのもの、何と云おうものなのか。
そのもの、ただそこにあるものとすれば。
そのもの、それは自然と云うべきものなり。
花瓶。
花瓶は花を生けるもの。
花瓶は花を生けてはじめてその存在を認めてもらえる。
だけど花瓶は脇役。
花の脇役。
その名の通り、花の引き立て役。
だけど花も花瓶がいなければ
やはり引き立たつことはできない。
そんな関係。
美の共演。
主役と脇役の関係。
だけどどちらも必要な関係。
二つのハーモニー。
それいただき。
見てくれよオレを!
そんなでしゃばりなんていい。
何だこの変なの、ん?あ!ほぉ、なるほどねぇ。
そう思ってもらえる。
うん、これでいい。
そういう花瓶が作りたい。
そしてその二つのハーモニーのお手伝いをしたい。
ただそれだけのこと。
だた、それだけのこと。
達麿平地(たつまろへいち)という男は、いわば自分の分身みたいなものです。
こいつはちょうどこのホームページを作っているときに、自分のホームページを管理してくれる管理人の名前を考えていて思いついた名前です。(でもまあ、管理人といっても自分なんだけど・・・)
一応意味があったりして、ただ思いつきで考えた名前ではないことをここに宣言しておきます。
意味はそのうち書きたい時がくれば書くかもしれませんが、今は書かないでおきますね。。。それ書くと長くなるから。
こいつが生まれたのは今から約四年前で、正確には2004年3月11日。そうそれはこのブログを管理している大本のホームページができた日と同じ日で、ホームページの誕生と共に、達麿もこの世に(というか正確にはネットの世界に)誕生しました。ですから本来こいつはまだまだ赤ん坊と同じではっきり言って世の中というものが分かりません。知能がないというよりは無知なんですね、早い話が。
だけど僕はこいつをどうにかして大きくしてやりたい。
大きくというのは大きな存在にということなんですが。
まだまだ自分の中では大きな存在ではなく、いまはまだネットの世界だけで精一杯みたいなそんなことろなので、これを足がかりとして少しずつこいつを育てて生きたいなと、そんな風に考えています。
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陶芸家という枠だけで物事を捉えて、たとえばこれをしては陶芸家じゃないとか、こういうやり方は陶芸に反しているとか、陶芸家はこうあるべきなどといった偏見をよく耳にします。これはどちらかといえば職業で陶芸家として飯を食っている人たちより、陶芸を少しでもかじったことのある素人の人たち(こんなことを言ってはその方たちに失礼かもしれませんが)、言いかえれば趣味で陶芸に携わっている人たちのほうにこういう偏見が強いように思うんですが、どうでしょうか。
なんかこう、陶芸家って威厳がある職業とか思われているんですが、必ずしもそれだけが陶芸家じゃなりません。威厳なんてものは陶芸家に限らずどんな職業でもあてはまるもんです。いや職業というか僕は「人」だと思うんですね、威厳にしてもなんにしても。結局、あいつは何を(どんな職業を)してるからこういうやつだ、ではなくて、あいつはこういうやつで、で何々をしている、と見てあげなければならない。分かりやすく言えば職業で人格を決め付けてはいけないということ。でもなんかこれ、多い気がします。
僕は枠にはまるのが嫌い、というか怖い。でもまわりがそれをゆるさない。しかし知らず知らずの内にそこに収まっていってしまう。そして気づいたときにはそれに酔ってしまっている自分がいる。そんなのは嫌だ。そんな風にはなりたくない。だけどそうなってしまったら今度はそれを手放すのが怖くなるだろう。一度築いてしまった自分の城を取り壊すのは、並大抵のことではハズ。そうならないようにする為に、自分は自由である必要がある。僕はものを作り続けていく以上はそういう立場の人が欲しい。。。そういう立場の人…僕はまだ陶芸を本職としている身分ではないけれど、自分でこんなことを言って恥ずかしいとは思っちゃいない。てか勘違い屋さん?かもしれない。でもそれでいいと思う。そう思っているから。ただそれだけのこと。
で、そういう常に自由な身の振る舞いができる立場の人が必要ならば自分でなるか、またはそれができないのであれば作ってしまえばいいと考えました。そういう考えが生まれてしまったわけです。
そして一人の架空の人物が出来上がった。
それが達麿平地。
達麿平地はいまはネットだけの住人だけど、これから僕と共に成長していくもう一人の自分。こいつは何にも縛られないいつも自由でいさせてあげたいヤツ。作りたいものがあれば何でも作らす、それが作りたいものならば。そのかわり作るからには完璧を目指す。他人中での完璧じゃなくヤツ自身の中での完璧。これできたら最高。
達麿平地はそういう男でありたい。
そしてゆくゆくは達麿平地として世に出ていってくれたら本望です。
日記は毎日つけるから日記なんだと人は言うが、一年365日休まず日記をつけ続けることがどんなに大変なことか。
日記を毎日つけるひとは、たとえ夜中まで酒を飲んで泥酔の状態で帰ってきた夜でも日記をつけるだろうな。
う~ん、僕にはそんなこと絶対にできないと思う。
泥酔していたらベットにそのまま倒れこみたいもの。
調子がいいときは僕も毎日日記をつけるよう努力している。
努力してまで日記をつけるくらいならしないほうがマシ、とか言った人が前にいたけど、日記をつけ続けることこそ努力が必要だと思う。努力なしでは日記はつけられない。
初めの頃は日記をつけ続けることがキツイと思ったときもあったけど、
続けていくにつれてそれが日課となり、
今では日記をつけなければ気持ちよく寝ることができなくなってしまった。
どうしても時間がなくて翌日に持ち越されてしまったときは、
何とも言えない二重の苦しみが待っているからだ。
今日過ごした一日の終わりに日記をつけることでその日の達成感を計る。
今日はこんなことをした、こんなところに行った、今日はこんなことを考えた、あれについてはこう思う、、、などなど、その日のまとめを日記に書き綴るのだ。
事実関係をただ書き綴っていくだけではそれはつまらないかもしれない。
しかしどこかに行って何かをしたことなどの情景を鮮明にイメージできるような文章は、読んでいてとても楽しい。
日記は活字による表現力を養うために打ってつけの方法だろう。
ちなみに去年2007年は数日を除いてほぼ毎日日記をつけ続けた。
たまにその日に見たもののスケッチを描いたり、
どこかに行ったらそこでもらったチケット類を貼り付けたり。
そうそう欠かさず貼り付けているものは電車のチケットなんだ、これが。
なぜそれをはじめたのか今では良く覚えていない。
ただ何となくではあるけれど、思い出つくりというか、アリバイ工作というか、たぶんそんなところだろう。まあ、アリバイをちゃんと残すっては大事だね。
ひょっとしたら予期せぬことが起こった場合にそれがあるのとないのでは説得力とか違うわけだしね。
まあ実際はアリバイ工作なんてする必要ないんだけども。。。笑
長々と日記についての雑感でした。